史跡佐渡金山 宗太夫坑のご案内です。江戸時代に掘られた坑道で、国の史跡に指定されています。
佐渡金山は発見後地下深くまで掘られたことから湧水が多くなり、排水の可否が採掘量に大きく影響しました。
佐渡金山では1650年代から水上輪と呼ばれる手回しポンプが使われました。
水上輪とは、長さ3m、直径30cm程の長細い桶の中に螺旋状の翼を取り付け、桶全体をハンドルで回転させ、水をねじ上げるものでした。
水上輪を操作する人達は樋引人足と呼ばれ、給与も高かったようですが作業は厳しかったようです。
水上輪を利用して水をくみ上げるこの技術は、農業にも活用され、米の増産に大きく寄与しました。


幾つかの展示を経て階段を昇り切ると、金穿大工の坑内休憩所が展示されています。
金穿大工は、坑内労働者の中では技術者として優遇されていました。
採掘は4時間ごとの交代制でしたので、休憩の時間がとれ、むしろの上で横になることもできました。金穿大工は高給でしたので、坑内から出ると酒や賭博を好み、流行の派手な身なりで贅沢な暮らしをしていました。しかし、石粉を吸う仕事でしたので、一般に短命の者が多かったといいます。相川の町には、こうした鉱山労働者の歓楽街も軒を連ね、金山景気で大いににぎわいました。
佐渡金山の発見後177年経った「安永7(1778)年、幕府は江戸の治安対策のため無宿人を佐渡へ送り水替人足として使役しました。
江戸中期には、より深い坑内での作業になったため、水上輪の使用もままならなくなり、桶や釣瓶(つるべ)による手繰水替が見直されることになりました。その後無宿人は、大坂、長崎からも送られ、幕末までこの制度が続きました。
佐渡へ送られた無宿人の総数は1874名とされ、隔日交代の一昼夜勤務と重労働を強いられました。
中には10年の水替を勤め上げて郷里に戻った者や、そのまま佐渡に定住し、普通の生活に戻った者もいました。