
江戸時代、佐渡金山は徳川幕府直轄の「天領」となり、その豊富な産金量は300年にわたる幕府の存続を支えました。金銀山の景気にわく佐渡を目指して、全国各地から鉱山技術者や商人、労働者たちが集まり、それまで百姓の寒村だった島に突如人口5万人とも言われる大都市「相川」が誕生します。江戸と直結していた佐渡には、当時最先端の知識や技術がもたらされ、全国各地から集まった人々は地域色豊かな文化を佐渡に根付かせました。開山から約100年で坑道の深さが海水面にまで達した金山は、坑内の湧水に悩まされるようになりました。江戸時代の坑道は、水没による放棄と排水技術の向上による再開発の繰り返しで、「水とのたたかい」だったとされています。

- 慶長6年(1601)
- 鶴子銀山の山師3人が佐渡金山を発見し、六拾枚、道遊、割間歩を開く。
徳川家康、伏見城にて大久保長安に佐渡金山の支配を命ずる。
- 慶長10年(1605)
- 大久保長安により大山祗神社、大安寺を造営する。
- 元和6年(1620)
- 佐渡金山大いに栄える。年間の生産量248千両。
- 元和7年(1621)
- 佐渡で小判の製造を開始する。
- 寛永3年(1626)
- 割間歩より水金沢へ排水坑道の掘削開始する(寛永15年完成)。
- 正保4年(1647)
- 相川大火。奉行所、金蔵、諸役所類焼により焼失。
- 承応2年(1653)
- 排水のため水上輪(手回しポンプ)の使用を開始する。
- 元禄4年(1691)
- 割間歩より南沢疎水坑道(排水坑道)の掘削を開始する。
総延長922mで元禄9年完成。
- 正徳4年(1714)
- 佐渡金山産の銅で銅銭を鋳造する。
- 寛延1年(1748)
- 相川火災により奉行所類焼。
- 宝暦9年(1759)
- 市中に散在していた勝場・床屋(選鉱・精錬所)を佐渡奉行所に集約。
- 安永7年(1778)
- 最初の無宿人60名が江戸より送られ、水替人足としての使役が始まる(幕末まで続く)。
- 寛政11年(1799)
- 火災により佐渡奉行所類焼。
- 安政5年(1858)
- 相川未曾有の大火により約1500軒焼失。奉行所等も類焼。